小関ブログ

“ボーリング・フォー・コロンバイン”

今日は、雲が多いながら晴れています。外気温は3℃。風もあまりなく、穏やかな朝です。
先週金曜日は、午前中の打合せの後、品川での大塚商会の「ネオダマ」に出かけ、7年間使っているエプソンのLP9200の後継機をキャノンの新製品に決めてきました。レーザープリンターもお手軽価格になったものです(嬉)。
土曜日は、小田原電設業協同組合の30周年記念式典にお呼ばれしたので参加をしてきましたが、“場違い”な雰囲気にとまどってしまい、懇親会の途中で退散してきましたです。
その後は、土日の休みをまったりと過ごしました。
ただ、息子殿が買ってきたマイケル・ムーアの“ボーリング・フォー・コロンバイン”という映画をDVDで観ました。
過激なブッシュ批判で有名なマイケル・ムーアらしい展開の映画で、アメリカという“銃社会”の問題を描いていました。まさにアメリカという国が、山岸流にいえば“社会的不確実性”に満ちた国であり、歴史的にも建国以前から何らかの恐怖によって支配されてきたことがよく分かるドキュメンタリーではありました。
驚いたことに、隣のカナダもアメリカと変わらない銃社会(そういう認識ではなかったのですが)であるにもかかわらず、銃による殺人がほとんどないということと、そればかりか、カナダ市民には、自宅に鍵をかけるという習慣が全くない(実際に、ムーアが無作為に家々のドアを開けて実験していました。)のだそうです。ここでは、まさに“安心”(社会的不確実性が低い)社会が実現しているのです。
同じ北米大陸にありながら、この両極とも言える社会の対比には考えさせられます。
それにしても、アメリカ社会できわめて大きな影響力を持つ“全米ライフル協会”の会長が、豪邸に住み、高校での銃の乱射事件や、小学校で6歳の少年が6歳の女の子を殺害した事件についてコメントを求められても何も言えない、単なるライフル(銃)依存者である事実にある意味ぞっとしました。
日本社会は、きちんとした銃規制があり、一般に銃が出回っているわけではありませんが、犯罪の増加、凶悪化、低年齢化という“恐怖”をマスコミや政治家があまりに振りまき、権力的に押さえ込むために常に“敵”を仮想する社会になればなるほど、“社会的不確実性”が高まり、市民は「自分と自分の周りは、自分で守らなければならない。」という観念に陥ることになり、武装化する社会になってしまう可能性が高まります。
今、世界を席巻しようとしてしているアメリカニズムは、アメリカ社会をそうしてきたように世界に“恐怖”を振りまき、“仮想の敵”を常に作り上げることによってアメリカの経済的利益を追求しようとしているようです。日本にとってそれに迎合することが正しい道なのか、それとも、カナダのように武力によることなくあくまで“話し合い”を模索する国民性を大事に考えるのか。という命題は、我々国民一人一人が真剣に考えなければならない。そういう時代にいることを深く考えさせられた映画でした。

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