小関ブログ

マニュアル化の影響か?

今日は、雲が多いながらも晴です。風は冷たいものの風がないと汗ばむような暖かさです。
昨日は、小沢一郎民主党代表の突然の辞意表明に驚かされました。辞意表明に関する記者会見での発言は、一見論理的で、よく考えられたものという印象を受けましたが、落ち着いてみるとやっぱり“壊し屋”の異名をとる小沢氏一流の論理であるように思えます。
この問題についてとやかく言う立場にはないのですが、民主党がこの辞意表明を受け、党内議論を進め、良い意味で“雨降って地固まる”的な方向でまとまっていくことを期待したいと思います。
ところで、最近、賞味期限と消費期限を改ざんしたというニュースが大きく報道されています。このことでふと考えたことを書いてみたいと思います。
このニュースの中で、時間で自動的に廃棄処分をする施設をもった回転寿司の映像が流され、“なんともったいない”と思いながらもそれが当たり前の世の中になってきていることに驚かされました。元々は、製造日しか書くことが決められていなかったのに、輸送期間がかかる外国商品に不利だという理由での外圧がかかり、消費期限・賞味期限を書くことが義務づけられたらしいのですが、そのことで、日本人の味覚が自分で感じることよりも日付に左右されることになったように感じています。
私たちの子供頃は“食べられる、食べられない”は、親や周りの大人から見分け方を教わりながら覚えてきたように思います。確かに、食品衛生上は期限を明らかにした方がよいとは思うのですが、その期限によってまだ食せるものが大量に捨てられていくというのはなんだか釈然としません。
一方では世界中で毎年百数十万人もの餓死者がいるという現実があるのに先進国が大量生産・大量消費の中で食品を大量に廃棄しているという構図は犯罪的でもあるように見えます。
90年代以降あらゆる場面でマニュアル化が進み、個々人の判断が制限されてマニュアル通りにすることが規範とされてきたようですが、そのことによって自分で感じることや考えることがおろそかにされ、人間としての様々な能力が退化していくのではないかという余計な心配をしたくなります。
消費期限・賞味期限もこのマニュアル感覚に共通するものがあるように思えます。日付をごまかすなどという不正行為は論外ですが、食の安全にこだわりながら、曲がったキュウリや泥の付いた野菜をいやがる消費者側もただ一方的に生産者や加工業者を攻めるのではなく、考えてみる必要があるのではないでしょうか。

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