小関ブログ

法制度史の歴史観

今日の小田原は、昨日に引き続き快晴です。風が少しありますが爽やかです。
昨日届いた「行政書士かながわ」5月号に「神奈川県行政書士会法制史(歴史ワーキング)の趣旨と経過報告」(P50)という一文が載っていたので、反応してしまいました。そもそも標題からしてこの歴史WGというのは神奈川行政書士政治連盟のWGであって神奈川県行政書士会ではないのですが、同誌1月号に掲載された「「徳川幕府公許公事宿」の代書人行政書士の活躍」という戸塚支部の会員個人名で書かれている文章について、その文章を書くための調査・執筆料として政治連盟の予算から十数万円が支出されていることを正当化するための文章であることに驚きます。そして、同様の文章が政治連盟定時大会議案にもあるのです。
早速、1月号掲載の論文(?)を読み、「趣旨と経過報告」を検証し、反論文章を書くことを思い立ち、昨日2時間ほどかけて書き上げました。しかし、一晩考え、反論文書として書いては大人げないし、読者である会員の皆さんから見て「空中戦」になるような論戦では意味がないということに気がついたので、『歴史から何を学ぶか』という論点からきちんとした論文を書くことにしました。
問題は、日行連の出版した「行政書士50年史」でもそれに近い立場を取っていますが、明治5年の太政官布告無号達「司法職務定制」による代書人を行政書士の法的起源と見るかどうかなのです。1月号掲載論文では、それ以前の公事宿・公事師までも強引に「代書人行政書士」と見なす立場で書かれているのですが、本当にそれが正しい歴史認識なのでしょうか。もし、公事師・公事宿→司法職務定制の代書人→行政代書人→行政書士という経緯をたどったのだとしたら、なぜ議員立法なのか、なぜ所管が内務省→自治省なとなったのか、また、大正8年の司法書士法は司法省が国会に提出した法律なのに大正9年の代書人規則はなぜ内務省令になったのか、明治30年代に全国各地の条例によって出来た「鑑札代書」はなぜ出来たのか。そして、司法省の組織を定めた司法職務定制の後年、明治7年に内務省が出来たときになぜ代書人は枝分かれをしなかったのか。ざっと挙げるだけでもこれだけの疑問が出てくるのです。
私の行政書士制度の歴史観、歴史認識についてはここで何度か書いてきました。それは、官製ではなく、市井の有識者による代書・代筆活動という地域のコミュニティから生まれ、その要求によって条例が作られ、それがさらに国を動かし、内務省令という形で国の制度となり、戦後勅令廃止によって代書人規則が廃止された後にも条例として復活し、その民意が国会を動かし、議員立法という形で行政書士法が誕生したという立場での理解なのです。その理解によってこそ、前述した疑問にすべて答えられるものであると考えています。
そして、その歴史観は、他の資格制度のような官製のもの、つまりヒエラルキー思考から生まれた制度ではなく、まさに、これから21世紀型社会の問題解決の手法であるコミュニティソリューションによって生まれてきた制度であることを示しているのだと考えるわけです。

最近の記事

  1. てんめい尽語
  2. てんめい尽語
  3. てんめい尽語
  4. てんめい尽語
  5. てんめい尽語
PAGE TOP