小関ブログ

『「法令遵守」が日本を滅ぼす』を読んで(2)

今日も穏やかな晴れの朝です。が、気温はかなり下がったようです。いつもなら15分歩いた位で手袋を脱ぎたくなるのですが、今朝は事務所に着くまでとれませんでした。
昨日は、農耕民族としての日本人の民族性がミーム(meme:文化因子)によって現代の日本人にも受け継がれているという話を書きました。
私は、郷原氏の言う「非法治国家たる法令国家」ということの意味は、日本という国家が、近代化を目指して明治期の初期に大陸法、英米法を混合した形で、まったく背景となる文化や歴史の異なる制度を取り入れたことにはじまり、戦後はアメリカ型の市場経済と民主主義を模倣しながらヨーロッパの諸制度からも直輸入をして、緻密で、精緻な法令を数多く作り、体系化しそれに基づいて制度化してきたけれども実際の経済活動や市民生活はそれとは乖離した形で動いているということで、精神的・文化的土壌がないままに法制度化がすすみ「法令国家」になったけれども、本来的な意味での「法治国家」とは言えず、そのことが「法令遵守」という言葉によって様々な問題を惹き起こしていると言うことだという理解をしました。
いま、政府部内で当たり前のように使われている“カタカナ語”の多くは、外来語というよりは、無理矢理日本語に置き換えているものが多く、一般の人々が理解することは困難であるという現実があります。言語とは、その民族の歴史や文化、伝統によって培われ、変遷し、或いは成熟してきたもので、その言葉の背景を為すものの理解が不可欠だと思うのです。が、日本の官僚の皆さんは、いとも簡単に直訳し、コンパクトな言葉に略して使っているようです。
なので、「コンプライアンス=法令遵守」という言い方もかなり問題がありそうです。


ネット検索をすると

コンプライアンス (Compliance) とは、(要求・命令などに)従うこと、応じることを意味する英語。近年、法令違反による信頼の失墜が事業存続に大きな影響を与えた事例が続発したため、特に企業活動における法令違反を防ぐという観点からよく使われるようになった。こういった経緯からか、日本語では「法令遵守」と訳される。

とあり、

一部でモラルと混同される向きがあるが、コンプライアンスはあくまで「法令遵守」であるため、モラルとは別物である。
たとえ法令そのものがモラルに反していたとしても、法令を遵守していればコンプライアンスは成立し、また法令に定められていないモラル違反(いわゆる「法の抜け穴」を突くような行為など)を行っていたとしても、法令を遵守してさえいればコンプライアンスは成立する。逆の言い方をすれば、法令に則っていない行動の場合、その行動がいかにモラル的に合致した行動でもコンプライアンス違反となる。

と、あります。(ウィキペディア フリー百科事典)何ともわかりにくい説明です。
しかも問題なのは、その日本語に置き換えられた言葉によって新たな価値観が生まれ、その価値観によってそれまでの社会では当たり前としていた価値観が淘汰されていくことだと感じています。日本には聖徳太子の17条憲法にいう「和をもって尊しと為す。」という伝統的価値観があります。この価値観に対して、市場競争至上主義によってもたらされる「弱肉強食」に基づく「勝ち組・負け組」という価値観が支配的になりつつあるように感じているのは私だけではないと思うのです。
いまは亡き、ピーター・F・ドラッカー氏がその著書の中で、書いている「私は、21世紀の日本が、あの日本に特有の社会的な調和、『和』を発展させていくことを願う。」という言葉を改めて考えさせられた次第です。

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