小関ブログ

ジェンダーフリー

今朝は、久々の雨が降っています。このところ乾燥した日が続いていたので、良いお湿りになりそうです。
昨夜のTVタックル(朝日テレビ)を見ていたら、男女共同参画社会の話題で、“ジェンダーフリー”という言葉を初めて知りました。
そこで、サイトを検索して『平成12年度文部省委嘱事業「0才からのジェンダー教育推進事業」』というのを見つけたので読んでみると

【ジェンダーとは?】
「男は泣くもんじゃない。」「女はおとなしく控えめが良い。」などのように、性別によって男女のイメージを決め付けてしまうことがありませんか?
 これが、ジェンダーです。
 ジェンダーは、社会(経済・政治)のありかた、歴史や文化の影響をうけて形成され、私たちの生活や意識のなかに、知らず知らずのうちに入りこんで、行動や考え方、ひいては、一人ひとりの生き方にまで影響しています。
【ジェンダーフリーとは?】
気づかないうちに、私たちを(まわりで、また自分自身で)縛りつけているジェンダーから自由になること。
 「男はこうあるべき」「女はこうあるべき」ときめつけないで、人間として、自分らしく生きるためのキーワードです。

と、ありました。私は、決して性差別肯定論者ではありません。強いていうならば、「男女共同参画社会推進論者」かもしれません。が、このジェンダーフリーという考え方には違和感を覚えます。
男女は、その身体的特質や脳の働き方(若干の構造を含む)に生まれもった違いがあることは明かで、その互いの特質を活かしつつ性に関係なく社会の一員としての責任ある行動をとるという社会規範の下に社会システムの中での不平等、不公平をなくそうというのが“男女共同参画社会”の考え方だと思うのです。
「男は男らしく」「女は女らしく」というのは、生物学的にはホルモンの働きによるもので、それを自然に受け入れることがなぜいけないのでしょう。この“ジェンダーフリー”という考え方が行き過ぎた場合、このホルモンのバランスを崩すこととなり、社会的な混乱を引き起こすのではないかとよけいな心配をしたくなります。
すでに、地方によっては、このジェンダーフリーの考え方を前面に出した条例などが制定され、教育の現場などに持ち込まれているようです。
しかし、「人間として、自分らしく生きるため」というキーワードが、穿った見方かもしれませんが、社会規範を否定し、利己的な人間を創り出すキーワードになるような気がしてなりません。
問題は、男女共同参画社会という理念に基づく社会規範を確立し、その社会規範に基づく「道徳」を教育するという姿勢がないことだと思うのです。昨日の成人式での一部の馬鹿な不心得者の行動を見ても、今、日本社会で最も欠けているのは、「人に迷惑をかけてはいけない。」「目上の人を敬う。」であるとかの「道徳心」を育てる教育がなされていないことだと思うのです。
「男女共同参画社会」という理念を掲げることは必要なことだとは思うのですが、その前に人間として、社会の一員としての価値観の共有とそれに基づく社会規範・道徳を確立することが重要なことだと思うのです。

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