小関ブログ

「反古典の・・・」読破を目指して

今日は薄曇り(でも、富士山は見えていました。)。外気温は4℃でした。
昨日は、午後からメルマガの編集をし、夜10時半すぎからどういう訳か目がさえてしまい、まずくて(私の口に合わなかったというべきか)の見残していた相模灘(小田原の地酒ではない)という酒を熱燗にしてちびちびと飲みながら「反古典の政治経済学要綱」(村上泰亮著)を12時過ぎまで読んでいたので、今朝起きたらどうにも「頭痛が痛い」のです。
「反古典の・・・」は、相変わらず難解ではありますが、読み進めていくうちにだんだんと理解がすすみ、面白味が出てきました。噛めば噛むほど味が出てくるようです。とはいえ、まだ半分までもいっていない状況なので、頑張ってなるべく早く読了してみたいと思います。
しかし、

近代進歩主義の特徴は、「一義的な理想秩序とそれへの一義的経路の認識可能性・実現可能性」にある、という言い方をしてきたが、言い換えるとそれは、「客観的法則」の存在についての信念であるといってよい。つまり、ときとところと人を問わず成立する命題が、自然科学におけるように社会分析でも成り立って、「社会科学」を構成するべきだとするのが、近代的進歩主義の立場なのである。しかし、このような形で客観的法則の追求が可能になるためには、人間を超えた、自分自身を超えた観察者の視点の確立が必要とされる。それを「超越論的主観」の確立と呼ぼう。つまり、主観と客観は見事に二分されていなければならない。デカルトの有名な「主客二分法」はまさにその点に解決を与えたのであり、そのデカルト的前提の上に近代自然科学が開花したのである。その方法に準拠して、様々の近代社会科学の試みがなされた。今更いうまでもないことだが、デカルトは、近代進歩主義の最大の源泉である。

この一文だけをとっても、その難解さは分かっていただけると思うのですが、普段何気なく使っている進歩主義(リベラル)という言葉を理解する上で、きわめて重要な内容なのです。
今日は、11時30分発のこだまで東京に行き、農林水産省農村振興課農地転用係との協議に参加してきます。
ところで、昨日の追記にも書きましたが、70,000アクセスが今日か明日には達成できそうです。キリ番をゲットされた方は、是非、“尽語”行末の“コメント”に書き込んでお知らせ下さいね。

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