小関ブログ

続・自己責任議論

今日は、午前中マッサージ治療後事務所にきたらそのまま打ち合わせになってしまい、尽語を書いている時間がとれずに昼になってしまいました。
本日の天候は、晴れでかなり気温が上がってきています。
先週金曜日から「人質事件」にこだわって書いていますが、予防法務を標榜する行政書士の視点からは、どうしても「自己責任」の議論が気になり、そこから規制緩和による自己責任社会や司法制度改革による事後救済社会のあり方が垣間見れるように思えるのです。
時代は、事前チェックの“暖かい社会”から自己責任・事後救済の“冷たい社会に変わろうとしていると言われています。しかし、それがこの日本社会に生きている市民にとって本当に幸福な社会といえるのかどうかはきわめて疑問であると私は思っています。
確かに、これまでのヒエラルキー社会の中にあった“安心”はなくなりつつあると言うことはよくわかっているつもりなのですが、今回の人質事件の中での一部のマスコミやそれに呼応した人々による人質となった3人へとその家族に対するバッシングと、その環境のもとで台頭してきた“自己責任”の議論は、戦中・戦前の日本社会にあった“非国民”と言って指弾する社会を彷彿とさせるものがありますし、何かが違っていると思うのは私だけではないと思うのです。
今回特にマスコミの責任は重いと先週も書きました。まさに“ペンの暴力”が横行しているのです。家族に対する過剰な取材攻勢の中で、頻繁にTVなどに登場させて、その言動をすべてさらけ出させて、それを都合よく編集して意図的にバッシングが起きるように編集して公開をしてきたのではないかと疑いたくなります。しかも、政府からでた情報はそのまま流し、また、いかにも“本人たちがそのまま現地に残って活動したいと言っている”かのような質問を小泉首相に対してするという意図的なものもありました。
本人たちにかかった費用の一部を負担させるべきだという“自己責任”の追求もマスコミが先導しているように映ります。戦場での真実を伝えているのもマスコミなのです。そして、危険を顧みず現地へ行って本当の意味での人道支援をしているのは民間のNGOであり、ボランティアの人々なのです。そういう意味では、マスコミはそのボランティアの活動を一番身近にみている存在であり、ある意味では戦友のようなものではないかと思うのです。今回人質となって帰国した5人もフリーライターとボランティアが混在しているのです。
こう考えると平和ぼけした国内マスコミの人々には、真実をきちんと評価して知らせることよりもワイドショー的に興味本位にこの問題を扱い、間違った方向に世論を誘導しているという風に判断できます。
確かに、興味本位で「戦争の現場をみたい」とか「スリル味わいたい」とかの理由でイラクへ行こうとする若者が増えているというのは言語同断ですし、それこそまさに「自己責任」であると思うのですが、戦禍のもとで苦しんでいる人々に本当の意味での支援の手をさしのべるという崇高な目的で危険を顧みずに現地入りした人を同様に扱うことはできないと思うのです。
一部にこの人質事件のためにかかった費用の一部を本人たちに求償しようという動きがあるようですが、本当に悲しいことだと思います。わたしはそのためにこそ「機密費」を使うべきであると思うのです。しかし、その求償が現実になったときは、是非、些少でもカンパをさせてほしいと思うのです。

最近の記事

  1. てんめい尽語
  2. てんめい尽語
  3. てんめい尽語
  4. てんめい尽語
  5. てんめい尽語
PAGE TOP