小関ブログ

続・続 自己責任論

昨日は暑かったですねぇ。いきなり夏になってしまったような陽気でした。今日も晴れています。昨日ほどではないようですが、今日も暑くなりそうです。
昨日の朝日新聞「天声人語」に「自己責任という言葉を何冊かの辞書に当たったが載っていなかった」とありました。つまり、誰かが作った造語と言うことらしいのですが、私自身、規制緩和や司法制度改革の流れを説明するときに当たり前のように使ってきたのですが、その言葉そのものの意味について深く考えていなかったように思えます。
今回、イラクでの人質事件を奇禍として巻き起こった「自己責任」論について、冷静に考えてみました。
この「自己責任論」が政府・与党の人々によって言い出され、それに呼応したように一部マスコミが扇動し、世論を形成しているような感がありますが、そのことに注目すると、20世紀末から始まった規制緩和と司法制度改革の議論による事後救済・自己責任社会への流れと密接に関連していることは否定しようがないと思われます。
つまり、政策としての「自己責任」という背景があるのです。従来型のヒエラルキーによる事前チェック社会では、国民が自己の責任において権利を主張し、義務を履行するということより行政が規制することにより未然に個々の国民の責任を低減することによって社会の安定を図ってきたわけですが、その分、問題が起これば国民は行政(お上)の責任を追及することによって問題解決を図ってきたといえると思うのです。
しかし、規制緩和や司法制度改革を推し進めることによって生まれてくる「事後チェック・事後救済社会」では、国民は自らの責任と判断のもとで法律行為や取引を行い、もし問題があったら司法を活用して事後救済を図るという「自己責任」を求められるのです。
このことは、「お上」という日本語に象徴される民族性の大変革を求めるという一大事業なのですが、そう簡単に日本の民族性が変わるわけはなく、「自己責任」という言葉だけが一人歩きしている状況の中でこの事件が起こったわけです。そこで、自己責任社会を目指す政府・与党としては、これほど「自己責任」を社会に問える格好の事例はないという判断が働いてもおかしくはないと思われるのです。これがこの「自己責任」を巡る議論の背景であると私は考えるのです。
つまり、個々でいわれている「自己責任」は、人質となってしまった3人(5人)とその家族だけの問題ではなく、日本国民全員の問題なのです。
そこで考えなければならないのは、今回自己責任を明示的にとらせる手法としてでてきた「救済費用の求償」ということです。本来、自国民の生命・財産の保護や海外における邦人保護は政府の責務であり、これまでも海外において人質事件等の被害者となった自国民に対してその救済に要した費用を「求償」するなどということは行われてこなかったわけですが、今回はその「求償」を行うと言明しているのです。つまり、これが「自己責任」なのだというわけです。
少々穿った見方かもしれませんが、政府・与党は、この人質事件をうまく利用してプロパガンダ的に「自己責任」に関するする国民的な意識誘導をしているように見えます。が、だとしたらすごい戦略的思考を持った政府だということになるのですが、他の政策にさほどの戦略性があるとも感じられないので、そこまで考えられた結果どうかは何ともわかりませんが。。。
このことが正しいのかそうでないのかは別にして、今後あらゆる場面で、これと同様の「自己責任」を日本国民一人一人が負っていくことになるということなのです。だからこそ、この「自己責任」という問題を一時の感情による情緒的な議論で終わらせることなく、真剣に考えなければならないのだと思うのです。

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